【1】潜入開始 ― 喧騒のフロア
坂井凌(男性・31歳)
川村紗季(女性・29歳)
この二人が派遣されたのは、社内でも最も騒がしいと評判の営業部だった。
名目は「業務支援課からの応援要員」。
だが実際は、営業部で囁かれている“不自然な売上”の真相を探るための極秘調査だった。
朝、フロアのドアを開けた瞬間、坂井は眉をひそめた。
電話が一斉に鳴り響き、社員たちは常に走り、声を張り上げている。
誰も座って落ち着いていない。まるで戦場だ。
「すごいな……ここは会社というより、株価の生放送みたいだ」
隣の紗季がくすっと笑う。
「坂井くん、皮肉っぽいわね。でも嫌いじゃない。そういう目線、現場では大事よ」
「あなたは、もう完全に営業部の空気に馴染んでますね」
「当たり前よ。潜入は“演技力”がすべてなんだから」
彼女は笑顔を浮かべたまま、フロアの中心へ歩み出る。
名刺交換を軽やかにこなし、誰とでも自然に雑談を交わす。
「いやぁ~、営業の現場って、ほんとにエネルギッシュですね! 私、支援課なのにちょっと圧倒されちゃって」
その一言で場の緊張が溶け、社員たちの口から次々と小さな本音が漏れていく。
「最近、課長がやけにピリピリしてる」
「数字だけ上がってるけど、実感ないんだよな」
「先月から新規契約が爆増してるけど、あれ……ほんとに全部実在してんのか?」
紗季は笑顔を崩さずに、頭の中で点を線にしていった。
【2】昼休み ― 情報の整理と意見の衝突
昼休み、休憩室の隅で二人は弁当を広げながら、小声で情報を照らし合わせる。
「トップの佐野課長、営業成績は確かに優秀。でも“数字の作り方”がグレーね。
新卒の子たちは疲弊して、辞める寸前。部内で噂が絶えない」
「なるほど」
坂井は短く相槌を打つ。
その手はすでに帳票のコピーをめくっていた。
「あなたは現場で“空気”を読むのが上手い。でも俺は数字の流れから見る。
営業成績の急上昇と、請求処理の増加が一致してる。しかも――帳票の形式が微妙に違う」
「どういう意味?」
「別の社員が同じテンプレートを使って“架空の契約”を複数作っている可能性がある」
「……それ、内部操作ね」
紗季は声を潜めた。
「でも課長の承認がなければ成立しないわ」
坂井は静かに笑った。
「そこを掘るのが俺たちの仕事です」
互いの視線がぶつかる。
やがて紗季が柔らかく息を吐く。
「数字で人の心を読むのが坂井くん。
人の心から数字の流れを読むのが私。……いいコンビかもね」
坂井は一瞬言葉を失ったが、照れ隠しのように口元を引き締めた。
「合理的に言えば、役割分担が明確というだけです」
「ふふ、それがあなたの可愛いところよ」
【3】データの罠 ― “架空売上”の影
午後、坂井は部のファイルを再確認していた。
帳票、契約台帳、顧客リスト──すべてを照合していく。
そして、ある共通点に気づく。
同じ顧客名。
同じ金額。
別の日付。
担当者は違う。だが内容は完全に一致。
坂井の心拍数が上がった。
「……これ、どういうことだ?」
プリントアウトした契約書を並べると、同じロゴ位置、同じ誤字がある。
コピーペーストの痕跡。
つまり、“数字を増やすための複製”だった。
「架空売上……いや、“数字の水増し”か」
坂井が呟く。
そこへ紗季が戻ってきた。
「なにか見つけたの?」
「この顧客、“西京物流”。3件契約してるが、実際の取引履歴は1件だけ。
日付をズラして重複登録している。しかも全部、課長印が同じ角度で押されてる」
「手作業じゃありえないわね……コピーだ」
「つまり、課長自身が“テンプレート”を操作している」
二人は目を合わせた。
もう後戻りはできない段階に来ていた。
【4】夜の調査 ― サーバールーム潜入
その夜、終電を過ぎたフロアに二人は残った。
警備の巡回を避け、静かにサーバールームへ。
ヘッドセットの向こうではIT担当・田島の声。
「今、課長の端末にアクセス。バックアップ開始……OK、ログ取得完了」
坂井:「取引データと印影ファイルを抽出してくれ。
タイムスタンプで不正編集を追えるはずだ」
田島:「了解……うわ、すご。深夜1時とかに更新されてるログがある」
紗季:「その時間、課長は在宅って言ってたわよね」
坂井:「つまり、外部からリモートで操作してる。確定だ」
紗季は机の中から一枚のコピー用紙を取り出す。
「これ、印影がずれてる。しかも印刷のトナーが二層になってる」
坂井:「偽造印影だな。証拠として保存する」
USBにすべてを転送しながら、坂井が言う。
「……もしバレたら、俺たちは処分だ」
紗季:「それでもやるの?」
「やる。誰かが止めなきゃ、下の社員が潰れる」
紗季はしばらく沈黙し、やがて微笑む。
「じゃあ、私が“前線”を引き受けるわ。あなたは後ろから支援して」
「了解。あなたの芝居、今回も頼もしいです」
【5】翌朝 ― 罠の解放
翌朝、営業部はいつも通りの喧騒。
紗季は営業社員を装い、課長・佐野のもとへ書類を持っていく。
「課長、この見積書、昨日と金額が一致してるんですが……修正しますか?」
「……誰が作った?」
「昨日、坂井さんに確認してもらいましたけど――」
課長の顔色が変わる。
その瞬間、坂井が入室。
「課長、このデータ、昨日のコピーでした。
再計上の前に確認しただけです。問題がなければ削除します」
「な、何を……っ!」
坂井は静かに言う。
「ご安心ください。報告書はまだどこにも出していません」
一瞬、課長の表情が緩む。だが、坂井の目が冷たく光る。
「ただし、これ以上部下を巻き込むなら――次は社長直行です」
沈黙が落ちた。
課長は震える手で書類を閉じ、無言で立ち去った。
数日後、課長は“家庭の事情”で異動願を出した。
翌週、フロアには笑い声が戻る。
新人たちは明るく電話を取り、冗談を言い合う。
坂井と紗季はその光景を眺めながら、ほっと息をついた。
【7】報告と次の任務
数日後、業務支援課の会議室。
坂井と紗季は報告書を手に、野崎部署長の前に立つ。
「報告は“支援業務完了”。詳細は、社内共有不要でまとめました」
野崎は書類を一読し、穏やかに頷く。
「……いい判断だ。正義を貫くことより、“現場を守る”ことを選んだ。
それが、総合調査室の本質だ」
坂井:「俺たちは不正を暴くために来たんじゃない。
誰かがまた笑って働けるようにするために来たんです」
紗季:「数字も人も、ちゃんと動くように整える。それが“支援”です」
野崎が微笑む。
「次の現場、準備しておけ。……もっと手強いぞ」
坂井と紗季は顔を見合わせ、静かに笑った。
「どうせまた、修羅場ですよ」
「ええ。でも、悪くない修羅場ね」
二人の笑い声が、会議室に穏やかに響いた。
打ち上げ
調査が終わった日の夜。
新橋の裏通りにある、総合調査室行きつけの居酒屋「炭火屋のむら」には、チームの面々がすでに集まっていた。
暖簾をくぐると、煙と笑い声とサラリーマンのため息が混ざり合う。
「おお、坂井くんと紗季ちゃん、お疲れ!」
ビールジョッキを掲げるのは村上徹。
交渉と調整のプロで、調査室の中では“飲み会幹事長”の異名を持つ。
「おつかれー! 二人とも、今回はすごかったねぇ!」
小林葵が嬉しそうに枝豆をつまみながら笑う。彼女は今回潜入していなかったが、他チームの報告は欠かさずチェックしている。
席につくなり、紗季がため息混じりに笑った。
「もう、あんなに電話が鳴りっぱなしの現場、二度と行きたくないわ」
「いやいや、俺は逆に鍛えられた気がします」
坂井が苦笑する。
「資料確認中に電話越しの怒鳴り声が10分続いたときは、正直、心折れそうでしたけど」
「だろ? 営業部って、あれで“通常運転”なんだぜ」
村上が唐揚げをつまみながら言う。
「おまけに架空売上。あんなのバレたら会社ごと吹っ飛ぶレベルだよな」
坂井はグラスを傾けながら静かに頷いた。
「でも……あれで部下が救われたなら、やってよかったと思います」
「珍しく熱いじゃない、坂井くん」
紗季がにやりと笑う。
「普段は分析と観察ばかりのくせに」
「いや、あなたが動き回るから、僕が冷静でいられるんです」
その言葉に、テーブルの全員が「おお~」と冷やかしの声を上げた。
「おっ、出た出た。チーム内ロマンス疑惑!」
「いやいや!」坂井が慌てて手を振る。
「職務上の連携です。職務上!」
笑いが広がる。
野崎部署長が静かにビールを置き、柔らかく言った。
「……いいチームになりそうだな。調査室は現場で支えることが仕事だ。正義感だけでは立ち向かえない。だが、お前らはその“正義”を現場に落とし込んだ」
その言葉に、全員の表情が少しだけ引き締まる。
しかし、すぐに藤原亮太が空気を変えるように口を開いた。
「てかさぁ、次の潜入先の話、聞いた?」
「まだ知らないけど、どうせまた厄介なとこでしょ」葵が言う。
「いや……次は“カフェ”だってよ」
「カフェ!?」紗季が思わず吹き出す。
「急にオシャレになったわね」
「でも油断すんな」村上がグラスを掲げて言う。
「そこ、“お局様が支配してるカフェ”らしい」
「お局カフェ……」坂井が思わず呟く。
「また難易度高そうですね」
「うちの調査室が行くぐらいだからな。たぶん“表向きは平和、裏では修羅場”ってやつだ」
そのとき、葵が真顔で言った。
「カフェってことは……制服あるんじゃない?」
「……あ、私たち、もしかしてエプロン姿?」
「坂井くん、似合いそうじゃない?」紗季がニヤリとする。
「いや、それは……業務に支障が」
「支障とか言うな!」一同が大爆笑。
その笑いの中で、野崎が静かにジョッキを掲げた。
「よし、次の潜入に向けて――乾杯だ」
「「「かんぱーい!」」」
ジョッキがぶつかり、泡が弾ける。
その瞬間、誰もが“戦場のような日常”の中で得たわずかな休息を味わっていた。
彼らの笑い声が、居酒屋の喧騒に溶けていく。
そして――
店を出るころ、坂井がふと呟いた。
「お局のいるカフェ、か……。また胃が痛くなりそうだ」
「安心して」
隣で葵が笑う。
「実は私、バリスタ経験あるの」
「え、ほんとですか?」
「うん、二週間だけだけど」
「……それ、経験って言えるんですかね」
二人のやり取りを背に、夜風が心地よく吹き抜けていった。
次なる潜入先――
そこには、また新たな“会社の闇”が待ち受けている。
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