はぁ……。
クリストファーは深く、肺の底がきしむほどのため息をついた。
トワイザラン王国。
この地において最も古く、最も広大な王国。
乾いた大地の上に立ち並ぶ白亜の塔。王都を囲む外壁は、陽の光を受けるたび銀のように鈍く輝き、千年以上にわたって外敵の侵入を許してこなかった。
その歴史は、私が所属する王国騎士団と共にあった。
――トワイザラン王国騎士団。
創設よりおよそ1200年。
その長き伝統の中で、最年少で団長の座についたのが、他ならぬこの私、クリストファー・オストレインである。
人々は私を羨んだ。若くして名誉と地位を得たと。
だが、華やかな称号の裏側には、剣よりも鋭い責務がある。
騎士団長の務めとは、常に重圧の中にある。
部下の鍛錬、礼儀の指導、王族の護衛、王都の警備。
ひとつでも欠ければ命が失われる可能性がある。
それでも私は、この仕事に誇りを抱いていた。
――少なくとも、昨日までは。
近頃はモンスターの出没も増え、各地で不穏な影が蠢いている。
“あの存在たち”――かつて封印されたはずのものたちが、再び姿を見せ始めている。
休息のない日々が続き、心も体もさすがに疲弊していた。
今日こそは久しぶりに休暇を取れるはずだったのだ。
昼まで寝て、軽く剣の手入れをし、城下の書店を巡り、午後にはカフェで一冊の詩集を読み耽る。
夜は騎士団学校の旧友たちと酒を酌み交わす――そんな、ごく普通の、だが何よりも贅沢な一日を過ごすはずだった。
……だったのに。
昨夜、王宮の最奥にある『祈りの間』に、突如として二人の不審者が現れたという。
一人は黒髪の若い男。二十歳前後、身長は一七〇センチほど。
もう一人は紫がかった肌をした若い女――同じく二十歳前後、息を呑むほどの美貌だという。
二人とも満身創痍の状態で祈りの間に倒れていた。
重傷者を見捨てることはできず、王宮の医務室に運ばれたが、その素性が知れぬ以上、暗殺者やスパイの可能性も否定できない。
結果、王の護衛と監視の任務が私に下った。
重い足を引きずりながら、私は王宮の白い回廊を歩く。
壁にかけられた古の戦士たちの肖像画が、蝋燭の光に揺れている。
冷たい石畳を歩くたび、靴音が虚しく反響した。
まずは、ムー大臣に事情を聞かねばなるまい。
彼の執務室の扉をノックすると、中から紙をめくる音が聞こえた。
扉を開くと、山のように積まれた書類の陰から、老人の額と白い髭がちらりと覗く。
「おはようございます」
そう告げると、ムー大臣は顔を上げ、目尻に皺を寄せて笑った。
「おお、クリストファー君。せっかくの休みを奪ってしまってすまんな」
ニカリと笑い、私の肩を軽く叩く。
その仕草は不思議な温かさを帯びていた。
この男の笑顔には、人の心を和らげる力がある。
王国の実質的なナンバー2――それなのに、どこか人間味を失わぬ稀有な人物だ。
先ほどまでの苛立ちが、少しだけ溶けていくのを感じた。
「いえ、大丈夫です。王と王宮を守るのが私の務めですから」
「さすがはクリストファー君。若くして氷の騎士団を率いるだけのことはある」
この国には三つの騎士団がある。
火、氷、そして土。
私はそのうち、氷の騎士団の団長だ。
冷静沈着、規律と統制を重んじる性質が求められる部隊。
その名に恥じぬよう努めてきたつもりだった。
「して、その二人は今どこに?」
「うむ。土の騎士団のレビン団長が看ておった。男の方だけ目を覚ましたらしい。どうやら自分の故郷の話をしていたそうだが……そのような国や土地はこの地には存在せん。王宮魔道士たちは“異世界から来た可能性が高い”と申しておる」
「異世界……?」
思わず言葉を繰り返す。
それは昔話や詩の中の空想ではなかったのか。
別の世界。別の理。
信じがたいが、祈りの間に現れたという経緯を思えば、あり得ないとも言い切れない。
「王もその意見に同意された。今のところスパイの可能性は低いが、万が一もある。しばらくは三大騎士団で交代して見張ることになるだろう」
「承知しました。……しかし、大臣、ひとつお尋ねしても?」
「なんじゃ?」
「なぜ彼らを城下町の医者に任せず、王宮で治療を?」
ムー大臣は小さく笑みを浮かべた。
「それはな、“祈りの間”に現れたからじゃ」
「祈りの間……?」
「そうだ。王は昨日、そこで祈っておられたのだ。この地を救う“救世主”が現れぬものかと。そこに、突如この二人が現れた。王は――あの二人こそ、祈りの応えだと信じておられる」
言葉を失った。
この国を守るために命を削ってきた私たち三大騎士団がありながら、
王はなお“外からの救い”を望んでいたのか。
喉まで出かけた不満を、奥歯を噛みしめて飲み込んだ。
「……わかりました。ではその二人に会ってきます」
ムー大臣の部屋を出て、救護室へ向かう。
王城の廊下には朝の陽が差し込み、ステンドグラスが床に淡い色の影を落としていた。
私は無意識のうちに拳を握りしめていた。
――私では、ダメなのか。
この国を守るには、異界の力が必要なのか。
17歳で史上最年少の団長となった私。
炎の騎士団のサラン、土の騎士団のレビン。確かに二人の剣技にはまだ及ばぬ。
だが、あと数年もすれば必ず追いつく。
なのに。
救護室の扉を開けると、白い光が差し込んだ。
薬草の香りと、乾いた布の匂いが混ざり合っている。
そこに、二人の“異世界人”がいた。
女はまだ眠っていた。
枕に流れ落ちる銀の髪が光を反射し、肌の淡い紫が不思議な温度を放っている。
その傍らの椅子に、黒髪の青年が座っていた。
そして、彼の背後には、嫌味な笑みを浮かべた男――レビン団長が立っていた。
「初めまして。氷の騎士団団長、クリストファー・オストレインです」
そう言うと、青年は静かに立ち上がった。
「初めまして。私はトリザリー王国のジーク・アストロイと申します」
「なぁ、クリス!」
レビンが口を挟んだ。
「聞いてくれよ、このジークの話、おもしれぇんだぜ! この二人、敵同士で戦ってたんだとよ! 痴話喧嘩の延長ってわけだ!」
不快な笑い声が室内に響いた。
私は眉をひそめたが、相手にしない。
「ジークさん。よければ、あなたのことと、この世界に来る前の話を聞かせていただけますか? このままでは、不審者として拘束せざるを得ませんので」
少しばかりの嘘を混ぜた。
だが、それが功を奏したのか、ジークは真剣な表情で語り出した。
――異世界。
魔族という種族。
そして、魔王との決戦。
黒い球体。
気づけばこの地にいた。
まるで荒唐無稽な伝説のような話。
だが、彼の目の奥にある疲労と焦燥が、それを真実のものとして訴えていた。
そして――彼の視線の先、ベッドに横たわる女。
「ん……ん……」
彼女の睫毛がかすかに震えた。
緑の瞳がゆっくりと開かれる。
新緑のような鮮やかさ。その色は、目にした者の心を一瞬で掴む。
「ここは……?」
小さく、だが澄んだ声だった。
「ここはトワイザラン王国です」
私は一歩近づき、深く頭を下げた。
「初めまして。氷の騎士団団長、クリストファー・オストレインと申します」
彼女の瞳が、静かに私を見つめ返す。
その光の奥に、長い戦いを終えた者だけが持つ、深い闇が宿っているように見えた――。
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