潜入開始 ― 朝の香りと緊張(1日目)
坂井凌(31歳)と小林葵(42歳)は、都内に3店舗を持つ小規模カフェチェーン「珈琲屋ルピナス」に派遣された。
名目は「業務支援課からの応援要員」だが、実際の任務はアルバイト離職率の原因調査。
最近半年で8人の離職があり、店長・小川(35歳中堅)は、長年勤務するお局・川辺玲子(48歳)に頭が上がらず、フロアは張り詰めた空気に包まれていた。
朝の店内は焙煎した豆の香りに包まれ、柔らかなジャズBGM。
しかしスタッフの顔は硬く、息を潜めるように動く。
川辺がエプロンを整え、淡々と指示を出す。
「カップの置き方は左から順。新人は笑顔より正確さ。笑うのは客が帰ってから」
坂井は観察を続ける。
「精度は完璧。でも……息が詰まる」
葵が小声で囁く。
「ふふ、これじゃ新人は心臓に毛が生えてても泣きそうね」
坂井は眉をひそめる。
「冗談にしても、手強い相手だな」
葵はにっこり笑い、カウンターの奥でコーヒー豆をくるくる回す。
潜入2日目
葵はドリンク作り補助を担当。
カプチーノマシンでラテアートを作ろうとするが、川辺の指摘が飛ぶ。
「フォーム厚すぎ。目分量じゃなく、手の感覚で覚えなさい」
葵は笑顔で返す。
「はいはい、私の腕も鍛え甲斐があります!」
軽妙な返しに、新人スタッフの結衣(19歳)が思わず笑う。
少しずつ肩の力が抜け、動作も滑らかになっていく。
葵はトレーを運びながら、スタッフに気さくに話しかける。
「昨日のドラマ見た?あの俳優さん、笑顔が反則よね~」
結衣や他の新人はぎこちなく笑うが、日に日に表情が柔らかくなっていく。
葵は潜入5日目には常連のサラリーマン客にも好かれ始める。
「おはようございます!今日も甘めのラテで攻めますよ~」
常連はにっこり笑い、「今日も元気だな葵さん」と返す。
フロアの空気も和らぎ、坂井はメモを取りながら静かに頷く。
「葵さん、ただの雑談でもスタッフの警戒心が和らぐ……さすがだ」
潜入5日目の昼休み
坂井は裏で売上・客数・アンケートを分析。
発注ミスゼロ
客数安定
平均単価上昇
しかし離職率は高止まり。
数字だけでは問題が見えず、川辺の完璧主義がスタッフの自主性を抑制していた。
坂井はノートに書き込む。
「理論だけでは動かない。心理的安全の欠如が離職の原因か」
葵はコーヒーを一口飲み、笑みを浮かべる。
「坂井さん、私がフロアで作戦を仕掛けます。ちょっとした承認欲求の満足で川辺さんを変えるの」
「どうやって?」
「ふふふ」
そうやって笑うと、葵はスマホを取り出し、電話を始めた。
「あ!野崎室長ですか?潜入先の改善をしたいんですけど、少し社長のお力を借りたいのですが、室長からお話戴けませんか?」
坂井にはこの時点ではまだ、葵が何を考えているのか分からなかった。
潜入6日目、葵は川辺にさりげなく話を振る。
「最近、本社が新人教育モデル店を選ぶらしいですよ。
新人がどれだけ自主的に働けるかで、トレーナーも評価されるんですって」
川辺は眉をわずかに動かす。
「……もしうちが選ばれたら、評価されるのね」
葵は笑顔で軽く頷く。
「評価が上がると、川辺さんの裁量も増えるかもしれませんね」
川辺は少し顔を赤らめ、微妙に動揺。
その日から、アルバイトに少しずつ仕事を任せ、細かく指示せず観察するようになる。
「いいわね、そのフォーム。合格」
「次はここの順番。焦らず、正確に」
アルバイトたちは驚きつつも、表情に安堵が混ざる。
葵は結衣の肩を軽く叩き、小声で囁く。
「ほら、笑顔で仕事できるってこんなに気持ちいいでしょ?」
なるほど。
この本社視察を社長にお願いしていたのか。
坂井は葵の発想に素直に感心をした。
視察当日 ― 苦味の奥にある甘さ(9日目)
本社視察当日、新人たちは自主的にドリンクや接客を担当。
自然な笑顔がフロアに広がる。
川辺は口を出したそうにするが、新人の働きを評価する場で手を出せない。
常連の老夫婦がテーブルでひそひそ話す。
「最近、このお店、居心地がいいわね。以前よりスタッフの笑顔も増えたし。」
川辺は動きを止め、心の中で驚く。
(前よりも居心地がいい……私が前に出なくても、店は回る……)
川辺はそのお客様の声を聞き、バックヤードへ静かに下がっていった。
それを見た葵は川辺のあとを追いかけ、さりげなく話しかける。
「少し肩の力を抜いても大丈夫ですよ。もちろん、私たちが補佐します」
川辺は目を細め、笑みが漏れる。
夜、バックヤードで葵が声をかける。
「みんな、あなたを必要としてる。でも怖がっているのも事実。両方を受け入れれば、もっと強くなれるわ」
川辺はカップを磨きながら呟く。
「……私が完璧でなくても、店は輝く。
休むって言える自分になろう」
葵はくすっと笑う。
「休む勇気って、意外とカッコいいんですよ~」
フロアから笑い声が聞こえ、結衣が小さく手を振る。
川辺は心の中で静かに頷いた。
数日後、坂井と葵は総合調査室で野崎真司 室長に報告。
坂井:「支援完了。詳細は社内共有不要です」
野崎:「正しさだけが正義じゃない。守るべきものもある。それを理解して動けるチームが、総合調査室だ」
葵は資料を片手に、笑みを浮かべる。
「坂井さん、次の潜入も楽しみですね。どんな騒ぎが待ってるかしら」
坂井は静かに微笑む。
夜、チーム全員で居酒屋「炭火屋のむら」に集合。
木の温もりが落ち着く、総合調査室お気に入りの店だ。
乾杯の声と共に、笑い声があふれる。
葵はすぐにスタッフと打ち解け、店長に冗談を言いながら注文を取りに行かせる。
「店長、今日のおすすめは私の胃袋に合わせてちょっと多めでね~!」
佐伯は苦笑しつつも、
「現場の空気も改善されてる。葵さんの功績は大きいな」
調査室全員がうんうんと頷く。葵の雰囲気作りは本当に天才的だ。
「次の潜入先は、フードロスの多い深夜コンビニらしいです」
葵は真剣な顔でグラスを掲げる。
「廃棄される食べ物も、人も、見過ごせないわね」
坂井も静かにグラスを上げる。
その後、仕事の反省や成果を振り返りつつ、関係ない雑談も飛び交う。
笑いと真剣さが入り混じる中、チームの夜は更けていった。
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